さらしぼ日記

さらっと死亡

地球温暖化とフェーン現象

夏が近づき暑さが増してくると、活躍するのはやはり扇風機である。
この扇風機、実は発明されたのは19世紀後半で、羽を回して風を起こすという構造は現在と全く同じであったことをご存知だろうか?知らなかった方は、ちゃんと知りなさい。


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(初期の扇風機)



さて、現代では様々な機能が付いている扇風機であるが、中でも一番優秀なのは「首振り機能」である。もちろん、タイマーやリズムなど、他にも便利な機能は多く存在するのだが、やはり首振り機能を超えるものは無いだろう。本来、一方向にしか風を送れない、いわば「便利なうちわ」であった扇風機が、首振り機能によって複数人が風を𝐒𝐡𝐚𝐫𝐞出来るようになったのである。
こうして、無事世界には平和がもたらされたように思えた。しかしながら、現実はそう甘くないということを、扇風機は教えてくれる。


扇風機の風を𝐒𝐡𝐚𝐫𝐞するということは、すなわち自分が享受するはずの風を犠牲にして、他者に分け与えることに他ならない行為である。
故に、簡単に扇風機の首を振らせているように見えて、実はそこには深刻な利害問題が生じていることがわかる。


もっとも、人間的な理想として掲げられる理念の1つとして「分け与える心」がある。
人は何かを分け与えると称賛し、逆に何かを独占すると批判する。私はこのような人間の勝手な美学が大嫌いなのだが、どうも最近はこの美学が、「半ば強制されている」ように思えてならない。
電車で高齢者に席を譲らなければならない雰囲気、バスで高齢者に席を譲らなければならない雰囲気、モノレールで高齢者に席を譲らなければならない雰囲気など、とにかく現代社会は窮屈になりつつある。





性悪説


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教養のある皆には釈迦に説法かもしれないが、性悪説とは、人は生まれながらにして悪であるという考え方である。この考えの元では、人の善意というものは全て偽善であり、善人など存在する余地はない。
ところが、社会では人の善意こそが素晴らしいとされているのが現状である。喩えるなら、飛べるダチョウに価値を見出そうとしているようなものだろうか。ダチョウが飛べないのと同じように、人間は本物の善意をもってして他者と接することなど不可能なのである。
つまり、悪を否定するということ自体が、人間の「人間らしさ」そのものを否定しているに他ならないのである。


こういう話をすると、性善説を持ち出してくる者も一定数出てくるのだが、正直ナンセンスという他ない。
もとより人間が善であるなら、我々はこんなにも多くの法で縛られる必要はないし、人は家に鍵などかけない。
とりわけ、世界の中でも日本人というのは、一般的信頼が非常に低い。一般的信頼とは、簡単に言ってしまえば「初対面の相手をどれほど信頼するか」の指標である。
そして、一般的信頼が高い国ほど経済が発展しやすいとされている。
これを言うと大抵の日本人は驚くのだが、日本人の一般的信頼は、発展途上国並みに低い
一方で、日本の経済は世界的に見れば高い水準にあるから、日本はいわば例外なのである。
では、なぜ日本はこの例外になり得たのか。
その理由の1つは、狭いコミュニティを形成してきたことにある。
その集団の中で人々は情報交換をするが、もし誰かが不正を行った場合、その事実はすぐさま集団の中で共有され、不正を行った者は村八分にされてしまう。したがって、不正を行うことで得られる利益より、村八分にされることによる不利益の方が多くなるため、人は合理的判断の元、不正という選択肢を(仕方なく)除外する。
現代においても、例えばメルカリやヤフオクなどの本人評価システムがこれに当たるだろうか。適当なことをすると自分の評価が下がるため、見知らぬ他人に対してもきちんと対応せざるを得ない。この事は出品する側も購入する側も理解しており、したがって双方は安心して取引を行うことが出来る。
メルカリに限った話ではないが、このような取引における円滑さを促しているのは「安心」であり、決して「信頼」ではないことに注意してほしい。取引を行う者は皆、不正をする事によって"評判が下がる"、"評判が下がることで取引先が減る"などの長期的な不利益が生じることを知っているから、相手は不正を行わないだろうと確信し、「安心」して取引ができるのである。





本物の善意


ここまで、人の善意を全力で否定してきたわけだが、敢えて読者諸君に問いたい。

我々が本物の善意を手に入れることは不可能なのだろうか?






















答えはである。









人類が本物の善意を手に入れる為だけに開発した𝐋𝐚𝐬𝐭 𝐑𝐞𝐬𝐨𝐫𝐭









人類の叡智、エアコンである。















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振る首など存在しない。振る必要すら無いのである。
発展途上国では未だに紛争や悪意による軽犯罪が横行しているが、これは発展途上国エアコンが無いからである。



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(警視庁 「犯罪情勢の推移と刑事警察の50年」より)


上のグラフを見れば一目瞭然だが、日本における犯罪の件数は昔と比べると減少している。表向きには「法制度の充実」や「経済水準の向上」が理由とされているが、そんなものはエアコンの前ではカスも同然である。エアコンの普及がさらに進めば、いつか犯罪が0になる日も訪れるだろう。
また、エアコンを付けて寝ると風邪をひくと言われたりするが、これは馬鹿は風邪をひかないという概念を逆手にとり、エアコンが我々の知能向上に一役買ってると言っているのである。発展途上国識字率が低いのも納得がいくだろうか。


こうして我々は、今日もエアコンによってもたらされた平穏の下、Music FMで音楽を楽しむのであった。

生理学入門

(トイレ行きたくなってきたな〜)

車内アナウンス「次の新宿まで、止まりません」

(ぶちぶち〜じょぼぼぼ〜)




人はトイレへのアクセスを絶たれた時、急激に「催し度」が高まる。
通常、自分の家にいる時、近くにトイレがある時などは、そもそも催す頻度が低かったり、多少催しても我慢出来たりするものである。
他方、通勤電車の中、バスの中など、トイレへのアクセスが絶たれた場合において、急に催したりするものだ。そういう場合は大抵、電車やバスを降りてトイレに辿り着く頃には催し度は下がっていて、(あれ?私の催しは何処へ?)と困惑するものである。

今回のメインテーマは、あなたが多少の尿意や便意を催した際、溜まっているものの量が同じであっても、おかれた状況によって催し度が大きく変化する事であり、それに関して理解を深めていけたらいいと思う。
ちなみに、筆者はアイドルなので、トイレには行かない。



1.
催し度に変化を与える状況の分類


先程も述べた通り、自分の家と通勤電車の中とでは、全く精神的状況が異なるわけであるが、これについてより具体的に分類していきたい。



第1段階は、心に安らぎとトイレに行こうと思えばいつでも行けるという確固たる自信がある場合。(ここで言う安らぎとは、布団に入った時のような身体的安らぎではなく、便器があたかも両手を広げてあなたを受け入れてくれるかのような、精神的安らぎを指す。)
例えば、自分の家。基本的に行こうと思えばいつでも行ける。たとえ家族がいたとしても、トイレでスマホをいじるガイジファミリーでなければほぼ差し支えが無いと言っていいだろう。


第2段階は、トイレが近くにあるが、必ずしも空いているとは限らない場合。これはコンビニや飲食店にいる場合などが該当するが、第1段階との差はあまり無いように思える。


第3段階は、トイレに行こうと思えば行けるが、場所が遠い場合である。例えば街中で少し歩くとコンビニがある場合、その地の公衆トイレの場所を把握してる場合、各駅停車の電車に乗っている場合などが該当する。この場合、第2段階とは話が変わってくるのでは無いだろうか。ちょっと催した時、(いや〜このくらい我慢出来るかなぁ)と思って歩みを進めると、案外催し度が強くなってくるものである。ただし実際には、少し我慢して目的地にあるトイレを目指しても、途中で堤防の決壊に至ることは稀であろう。というかそんな簡単に漏らされたらお漏らしの価値が下がるからやめろ。


第4段階は、トイレへのアクセスが比較的悪い場合である。周りにコンビニが無い場合、通勤電車やバス、車の中などのトイレから物理的に遠い所にいる場合が該当する。ここに来てようやく漏らす人がちらほら出てくるのでは無いだろうか。とはいえ大抵の場合は我慢出来るのだろうが、催し度の変化は急激になりがちであるのは事実である。腹痛など来ようものなら最後、社会的な死を覚悟するべきと言ってもいいだろう。ばいばい。


第5段階は、トイレへのアクセスが非常に悪い場合である。コミケの待機列、エレベーターに閉じ込められた場合、交通渋滞で車が動かない場合などが該当する。そもそもこんな状況には出くわしたくないものだが、この状況下で(トイレに行きたくなったりしないかな...)と心配したが最後、あなたの頭の中はトイレの事でいっぱいになり、勝手に催して、勝手に催し度が上昇し、漏らすことになるだろう。腹痛なんて来ようものなら、我慢することを諦めて笑顔で放出してしまうかもしれない。




資料:FIVE LEVEL OF MOYOSY(2003年発表)

(参考文献:オッスクフォード大学 生理学研究所)



以上大きく5段階に分けてみたが、まずはあなたの日常生活を想起し、想起した各状況がこの5段階のいずれかに必ず当てはまることを確認して欲しい。

それはすなわち、日常生活において、(意識していないかもしれないが)あなたが心理的状況の影響下に置かれ、恒常的にトイレに行きたくなったり行きたくなくなったりしていて、その加速度も常に変化しているということである。



2.
ここまでで状況による催し度の変化についての理解は深まっただろうが、それが具体的にどう作用するのか見ていきたい。

先程も述べたように、溜まっているものの量が同じであっても、おかれた状況によって催し度が大きく変化するのである。
トイレに行かない私からすれば、第1段階にいる人間も第5段階にいる人間も、実際溜まっているものは同じなのだから、第5段階にいる人間も理論上は我慢出来るようにも思える。
けれども、どうやら人間の焦りの感情が事をそう上手くいかせないらしい。

あなたが家でくつろいでいるところに、“トイレでスマホいじり星人”(以下、ゴミ)が参上して、自宅のトイレを占拠し始めたら、あなたの精神的状況は第4段階あたりまで跳ね上がるだろう。
一方であなたがゴミの存在に気付かなければ、状況は第1段階のままである。
故に、精神的段階というのはあくまで本人の意識、つまりはトイレに行けないという焦りに依存することは理解出来るだろう。第1段階から第4段階に跳ね上がるのは、ゴミが参上する瞬間というよりは、あくまであなたがゴミに気付いた瞬間というわけだ。





3.
それはさておき、近年になって地球温暖化が急速に進み始めた。海面は上昇し、オホンゾールの破壊も進む一方である。そんな数々の問題を抱えている我々が、のんきにお漏らしの話なんか読んでる暇なんか無いだろ。私はそういう現代人の呑気さがあまり好きではない。
話を戻すが、近年の異常気象を地球温暖化の一言で済ませるのは問題がある。そもそもこの地球は、人類が存在する遥か昔から続く長い歴史の中で、温度が上がったり下がったりを繰り返してる。そんな温度変化の中で、たまたま今が温度が上昇してる時期であるとしたらどうだろうか。地球温暖化と騒ぐ民衆がアホみたいに見えてくるだろう。地球が少し尿意を催しただけで、「さっきまで催してなかったのに!精神的な負荷がかかっているに違いない!」と叫んでいるようなものだろうか。これにはさすがの地球も(いやさっきちょっと魔剤飲みすぎただけや...)と苦笑い。
とは言え、人類が環境を破壊しているのも事実であるから、環境保護は大切だろう。そして、環境破壊に負けることなく回り続ける地球も偉大であるから、もっと褒め称えた方がいいだろう。最強。天才。陽キャ。学科試験一発合格。母ちゃんがでべそでは無い。
















4.結論

おむつはけ

グリーン車 ワザップ


① 4号車と5号車の間にあるトイレへ行く





② 便座に座る
(※ズボンを脱いでおくと、スムーズに進みます)





③ トイレットペーパーを3回転半、巻き取る





④ ③で巻き取ったトイレットペーパーを、あえて何も拭かずに捨てる
(※拭いてしまった場合、②からやり直す)





⑤ 前方にあるSOSボタンを、7回押す→水道で手を洗う





股間をハサミで切り、気を失う
(※ここで気を失わないと、車掌に捕まります)






⑦ 目が覚めたら、成功です
今日から股間のない人生が始まります

電気泥棒は放火魔の夢を見るか

世間ではごく当たり前のことだが、高等学校のコンセントを使ってスマートフォンを充電したり、Wi-Fiを飛ばすことはいけないこととされている。また、セラミックヒーターやIHを使うと、危ない。
もし部屋が臭くなったら、それはコンセントの無断使用による発火が原因で、これが他の部室にバレようものなら、すぐさま家電は没収されてしまうだろう。



それを阻止する、唯一にして絶対的な対策は、消臭ビーズで消臭することである。
だが仮にそれを設置したとして、非常識な市民によって投げて遊ばれる未来は避けて通れはしない。




この大きな壁は、到底乗り越えられないもののように思える。
ところが、人類とは偉大なもので、長い歴史の中でどんな壁をも乗り超えてきたのである。
人類の叡智は遂に、液体消臭剤に到達したのだ。
かの有名な詩人である高田敏子の詩『水のこころ』にもあるように、水は掴めないのである。掴めないものを投げようも無いだろう。
人はこれを“第一次消臭革命”と呼んだ。実に安直な名前である。ちなみに第二次は起こらない。

ところが、液体消臭剤、これが市場に出回ると、あろうことか非常識な者たちは、この液体消臭剤を溢してしまったのだ。多くの研究者の長年の苦労は、非常識な者たちによって一瞬で打ち砕かれたわけである。





これを理不尽だと思うだろうか。
結局のところ、万物において完全体は存在しないのである。完全無敵の矛と盾はいつになっても完成しない。


言うまでも無いが、人間は愚かである。
愚かな人間は、自分の非を認めない点で愚かである。
反省しない点で愚かである。
そしてその愚かさは、未完成のそれに価値を見いだし始めた。ミロのヴィーナスなどがいい例だろうか。





これに腕を付けたコラ画像を作ってやろうと思ったが、面倒なので、やだ。
とにかく、人間は“不完全”に対して、このように折り合いを付けてきた。付けざるを得ない、と言った方が正確だろうか。
完全を求める一方で、完全な物を作ることは不可能。
この矛盾を解消するために人は、“不完全なもの”を“完全なもの”として完成させたのであった(以下、これを“偽完全体”と呼ぶことにする)。
そういう意味で、むしろ人間の愚かさは必然であるようにも思える。
愚かさを捨てるということは、すなわち完全を追い求めること、それ自体を捨てるに等しいからである。

その点で、液体消臭剤は“偽完全体”である。
非常識な市民によって溢されるという欠陥を孕みながら、消臭剤としての終着点、つまりは完全体と見なされたのである。





















ここまでが、20世紀までの話である。






それでは、21世紀では消臭剤がどうなったのだろうか。
そもそも完全体として終結したのであるから、発展のしようが無いのではないか。
確かにその通りである。
消臭剤は液体消臭剤で完結した。
それが最終話なのだ。


ところが、人類の叡智は消臭剤とは別の、アナザーストーリーを綴り始めた。

消臭剤2期決定!
といったところだろうか。
1話だけ観て2話以降切ってしまいそうなタイトルである。


























それが、臭豆腐である______________





くさややシュールストレミングなど比べ物にならない臭さである。嗅げばわかる。

そう、つまりコンセントから発火したなら、それより臭いもので臭いを上書きすればいいのである。
大声を出してかき消すナリ、という発想も実はこれに由来する。

また、臭豆腐は臭すぎて投げられないし、固形なので溢せないため、かつての問題はものの見事に解消されている。もう妥協などしなくてもよいのだ。
そしてこの臭豆腐の素晴らしさは、グローバル化が進んだ今、世界的に認められている。





このように、アメリカの大企業Amazonにもchoiceされるほどである。

ちなみに、
臭くなっては消臭とは言わないのでは?
と疑問に思うかもしれないが、安心して欲しい。元の臭いが消えてる時点で立派な消臭である。
香水で臭いを撒き散らす女性を思い浮かべれば理解は容易だろうか。
そろそろ充電が100%になりそうなので、まとめに入りたい。今回のポイントは大きく4つにまとめられそうだ。





まとめ
1.セラミックヒーターは部屋全体が暖まらない
2.電子レンジにアメリカのグミを入れてはいけない
3.HDDはヴンブンシェイクすると壊れる

私が冬でもアイスコーヒーを飲む理由

寒い日にはホッコトーヒーやコースプーンなど、温かい飲み物が恋しくなりますね。体が温まるのはもちろん、容器から伝わってくる温もりを感じ取るのも趣きがあるでしょう。しかしながら、私は冬になってもスタバでアイスコーヒーを頼み続けている事をご存知でしょうか?ご存知無い方は、ぜひ覚えてから帰るようにしなさい。これについて、異論反論があるのはわかります。ですが、私にも私なりの考えというものがあります。きっとこの記事を読んだ後には、スタバでアイスコーヒーを頼みたくなる事でしょう。ストローをお通ししてくれないので大宮駅のスタバは冷たいです。




1.手が冷たい人は心が温かい


手が冷たい人は心が温かい、というセリフを一度は耳にした事があると思うが、これは真っ赤な嘘である😱。なぜなら、これはエントロピー増大則に反しているからだ。

この不等式からも自明である。
じゃあアイスコーヒーの心が冷たいと言うのか?と怒りを抑えきれない者も多いと思うが、まあ聞いて欲しい。コーヒーにされるコーヒー豆は、コーヒーになった時点でもう豆には戻れないのだ。人はどうにもこれを“運命”の2文字で片付けたがるが、私はそんな都合良くものを考えるのが嫌いだ。故に私は、このコーヒー豆を哀れだと感じてしまう。コーヒーにされた時点で、もうそいつが誕生した意味は終了した。そいつは所詮そこまでの器なのである。だがせめて、最後は温かい終わりを迎えたいのが豆の情というものである。しかし畜生人間ときたら、こいつらをいい感じの容器にぶち込んで、冷蔵保存しやがるのである。あり得ない。これが人のする事か。しかしながら、お店のメニューにはHOTとICEが存在している以上、まあ仕方がないのである。これが運命なのだろう。つまるところ、この可哀想なアイスコーヒー達をせめて36℃の楽園で終わらせてやろうという、いわば一つの優しさである。

2.模試っこ製造工場🏭


コーヒーには利尿作用があるのはご存知だろうか。医学的には、飲んだコーヒーが胃で消化されないため、腸の内側から浸透して、下からジョボジョボ出てきてしまうのである。これが俗に言うお漏らしというものであろうか。それはさておき、寒い日に冷たいアイスを食べらたお腹を壊した、という経験は無いだろうか?無いという方は、この先少し専門的な話に入るので、一度朝半袖でサーティーワンに開店凸してホッピングシャワーをレギュラーで頼んでからこの記事を読んで欲しい。きっと美味しくて次からも食べたくなってしまうだろう。さて、冷たいものを食べるとお腹を壊すわけだが、これをマイナスと捉えるのが現代人の悪いところである。それもそのはず、最近はダイエットや生活習慣病を始めとして、世間全般で“食の抑制”について敏感になりすぎている節があるからである。そうして、お腹を壊す→食べるのを止めよう、と考えてしまうのだろうか。しかしながら、私に言わせてみればそんなものはナンセンス以外の何物でも無い。腹を壊すと、必然的にトイレに行く(漏らす人を除く)。そうする事で、もっとトイレが身近に感じられはしないだろうか?どんな時だって、便器は優しくあなたを受け入れてくれるだろう。ボールが友達であるのと同様、トイレもまた友達なのである。剛力彩芽の言葉を引用すれば、「友達より大事な人」である。いい曲なので、サビの歌詞も引用しておく。


ねえ君はもう友達じゃない
友達より大事な人
心と心で話す魔法
そう目を見ればわかる
「ありがとう」じゃ足りないほど
「ありがとう」が溢れてるよ
神様がくれた最高のタカラモノ
世界一のMy Friend


もう薄々勘付いてる人もいるだろうが、この曲における君とは、トイレの事である。トイレにはトイレの神様がいるという戯言があるが、トイレ自身が神様であることは、肝に命じておきたいところである。

まとめ


以上のことから、冬にアイスコーヒーを飲む理由は以下3つにまとめられる。


・漏らしても
・慌てずに
・平静を装って
・大声でかき消す


bye🤗

味覚論

ーヒーは おいしい
ーラも おいしい
うちゃも おいしい
いくちしょうゆも おいしい


「こ」で始まるものは何でも美味しく感じてしまうのは、皆も常日頃から感じているのではないだろうか。しかしものの名前とは、必ずしもそのものの性質を表すとは限らない。

例えば、「まっちゃ」は、“まっ茶”と言っているクセに緑色をしていやがる。何を思って“まっ茶”などと名乗り始めたのかは知らないが、こいつみたいな嘘をつく奴は大抵美味しくないのだ。


では、「こ」で始める飲み物が例外なく美味しいのは何故だろうか。それは私にもわからないが、おそらく「こ」という文字の中に美味しさが詰まっているのだろう。

他にも見てみよう。

つたけは おいしくない
つぼっくりも おいしくない
とんも おいしくない
ーマイトも おいしくない


このように、「ま」で始まる食べ物は美味しくない。なぜだろうか、私にはさっぱりわからない。しかし、先程と同様に考えると、「ま」には美味しさが詰まらないのだろう。

ほれみろ〜wwww
やっぱこういう事なんだよね。

人生を豊かにする化学の話

電解質をご存知だろうか?詳しい説明は省くが、簡単に言うと、水に溶かすことでイオンになる物質である。例えば、食塩であるNaClは、通常ではNaClのままであるが、水に入れると溶ける。すなわち、Na+とCl-に電離するのである。

このことから、電解質を水に溶かすことで質量が2倍になることがわかるだろうか?NaClという1つの物質が水に溶けることによってNa+とCl-という2つの物質になり、結果的に元の食塩の2倍の食塩が完成するわけである。この手法を用いれば、実質食塩は無限生成出来ると言えるだろう。しかしながら、実際にはこの手法は有名ではないし、科学技術が進歩した今でも未だに実用化まで進んでいないのである。
他方、質量保存の法則に反していると考えた者も少なく無いと思うが、そこは安心して欲しい。例えばあなたが塩コショウを使った料理を作ろうと考えた時、あなたが塩を2倍にした時点でコショウは半分になっているので、ちゃんと質量は保存されている。世界はそうやって均衡が保たれている事を肝に銘じて欲しい。
実用化の話に戻るが、なぜ現代人は人工知能だの高性能デバイスなどのガラクタばかりに熱を注ぎ、塩の無限生成で優勝しようと思わないのか。まあその怒りも分からなくもないが、これには深い“ワケ”がある。というのも、先程の説明だと、NaClを水に溶かすと質量が2倍になるという手筈だったが、裏を返せば、水を無くしてNa+とCl-を取り出すとNaClが生成し、元の質量に戻ってしまうのである。そして、料理で電離によって生成した塩(以下、吉澤正明)を使ったとして、水はコンロの上では蒸発してしまうため、勝手にNaClに戻ってしまう。つまり、コショウは半分のままで、塩も半分の薄味の野菜炒めが完成してしまうのである。これは困った。実用化されないのも無理はない。だが私はここで、(おそらく世界初の)新提案をしたいと思う。それは、あらかじめ2倍に増やした吉澤正明を2倍入れておくのである。そうすれば、塩もコショウも最終的には元の量となり、美味しい牛スジの塩コショウ炒めが完成するわけである。どうだろうか。もし食品メーカーの関係者がこの記事を見ていたのであれば、是非とも実用化に踏み切って欲しいと思う。
一方で、電離の恐ろしさについても書いておこうと思う。まず一つに、“2段階電離”というものが存在する、という事である。例えば、H2SO4(硫酸)の場合、まずH+とHSO4-に電離し、次にHSO4-がH+とSO4^2-に電離するわけである。これをもとに考えると、NaClは一見Na+とCl-に電離したように見えるが、これはあくまで“1段階目”の電離なのである。2段階まで進むと、Na+がN+とaに電離するのだ。Nはご存知の通り窒素原子であるが、問題なのはaである。これは、未だに発見されていない物質、つまりダークマターなのである。どんな反応を示すのか、人の体にどんな影響を与えるのか、全く未知な物質なのである。故に、私たちがNaClを無限生成するには、それ相応のリスクを伴うということだ。CaCO3(炭酸カルシウム)も同じだ。これは卵の殻の成分でもあるが、2段階電離によって炭酸イオン以外にC(炭素)とa(ダークマター)が発生するため、卵の殻を無限生成するのは非常に危険な行為なのである。
この話を聞いて、やはり塩は怖いと思っただろうか?どんな感想を抱くのも個人の自由であるが、他方で人類は今まで、大量のリスクを負いつつここまで文明を発展させてきたのも事実である。もちろん犠牲はたくさんあった。容易に乗り越えられない壁だってあった。だが先人たちはこれを乗り越えてきたのだ。今我々現代人に求められているものは何だろうか。現状維持か?歴史の繰り返しか?いや違う。リスクを恐れず塩を無限生成すること、ただこれに尽きるのだ。
塩は自然の恵みであるが、同時に自然が我々に課した試練なのである。今こそ、その試練を共に乗り越え、美味しいきゅうりと酢豚の塩コショウ炒めを食べようではないか。この壁の先には、きっと美味しい未来が待っているはずである。