人はなぜこんなにも愚かなのか
あなたは自分が愚かだと自覚したことはありますか?もし無いのであればあなたは非常に愚かです。もし愚かさを自覚しているのであれば、それは改善の余地があります。しかし、そこで改善してしまうと愚かではなくなる為、あなたは人間ではなくなってしまいます。これは困った。このままでは、愚かである事を自覚していながら改善をしない、これこそまさに愚でありまた人間たる証明である、という命題が成り立ってしまう。これを解決していくのが今回のメインテーマとしよう。
解決策1
これは一つの提案であるが、人間はどこまでも愚かであり、改善を試みても無限に愚かであるとしたらどうだろうか。そうすれば、何度改善という試行を繰り返した所で永遠に愚かからは抜け出せず、結果的に人間としての自我を保ち続ける事を可能にする。
しかし一見解決したようにも見えるが、冷静に考えると改善を試みている時点で、その人間は愚かでは無い事がわかるだろうか。これでは矛盾が生じてしまう為、この提案はボツ、ということになる。
解決策2
それでは、愚かという概念そのものが人間が脳の演算で把握しきれない未知のものであったらどうだろうか。この仮説が成り立てば、人間の自覚・無自覚など問題ではなく、人間は問答無用で人間として自我を獲得し得るのではないだろうか。
これで解決したと思ったあなたは愚かである。確かに人間が把握しきれない愚かさが存在すれば、人間は愚かさについて考える必要すら無くなるかもしれないが、それを考えることを放棄した時点で既に愚かである事は自明だろう。更に、人間の愚かを把握出来ないのに「自分は愚かだ」などと言って人間面するのは烏滸がましいにも程があるのではないか。故に、愚かさを人間が認識するのは不可避であると言える。
解決策3
前提条件が間違っている可能性を疑ってみよう。人間はもとより愚かでは無い、とすれば、前書きの矛盾も発生しなかったのではないか?確かにその通りである。
しかし一方で、この仮説が正しい場合、愚かな行為をした時点で人では無くなってしまうという問題が生じてしまう。これは困った。
解決策4
今気づいたが、タイトルを見たら“人はなぜこんなにも愚かなのか”と書いてあった。文章を書く前に適当にタイトル付けたせいで、タイトルと全く異なる議論を繰り広げてしまった。中には人間の愚かさを解き明かしたくてこの記事を開いた人間もいるかもしれない。私はなんて愚かなんだ。ああ、愚か愚か。(以下、愚かのうた)
ああ おろか〜♪
どうして ひとは おろかなの〜?
じぶんの おしりに ききましょう〜♪
(繰り返し×3)
【図説】次元についての考察
マエガキ
みさなんは4次元空間がどんなものであるか、想像することが出来ますか?出来る、という人もいるかもしれませんが、我々は3次元空間に存在している以上4次元を実際に想像する事は不可能です。ですが、概念だけであればみなさんでも理解する事が出来ます。というわけで今回はそれについて解説していこうと思います。
次元のおさらい
4次元の話をする前に、まずはみなさんが想像する事が出来る低い次元がどういうものであるか、おさらいしていきましょう。
0次元:点
1次元:線
2次元:面
3次元:空間
4次元:???
3次元まではみなさんご存知だと思います。ところで、このリストを見て何か法則が見えたでしょうか?結論から言うと、n次元に対してn-1次元が展開図のパーツになっているという事です。
0次元→1次元
みなさんは中学校でy=xのグラフを習った時、どのように習いましたか?おそらく、直線は“点の集まり”であると習ったのではないでしょうか。その通りです。まさに点(0次元)は線(1次元)の展開図のパーツなのです。点を無限に集めると線が完成します。
1次元→2次元
線(1次元)を4つ用いると、面(2次元)の展開図が完成します(上)。これより2次元が完成します(下)。
2次元→3次元
もうここまでくれば話が早いですね。2次元を6つ用いることで3次元の展開図が完成します(上)。これより3次元が完成します(下)。
3次元→4次元
さて、この記事の本題である4次元ですが、ここまで来ればもはや説明無しでも予想はつくのではないですか?その通り。3次元を8つ用いることで4次元の展開図が完成します(上)。これより4次元が完成します(下)。
と言いたいところですが、最初にも述べた通り我々3次元の住民はこの展開図から4次元を創造することは出来ません。我々が辿り着けるのは4次元の展開図までなのです。悲しいなぁ。また、同じ要領で4次元を10つ用いることで5次元の展開図を作ることも出来ます。(以下繰り返し)
さいごに
私は4次元空間のことを考える度に、人間の無力さを痛感させられます。4次元の展開図は目の前にあるのに、それを完成させる事が出来ない、こんなもどかしい事がありますか?まるで3次元という牢獄に一生閉じ込められているようです。余談ですが、私はこの宇宙の外側には4次元空間が広がっていると考えています。3次元の存在である我々が2次元を見るように、4次元の誰かもまた3次元の我々を見ているのです。
脳死論【外伝】
あなたは納豆を混ぜるとき、何回かき混ぜますか?
あなたは今日一日で何回あくびをしましたか?
人間はみなさんが思っている以上に頭を使っていません。このような状態を医学的には“脳死”と言いますが、この脳死を回避するためにはどうするのが良いのでしょうか。今回はこれについて議論を深めたいと思います。
1.頭を使うとは何か
学校帰りに、今日のご飯は何だろう、と思考を巡らせたり、あるいはその日に習った事を頭の中で繰り返し復習する事で、『頭を使うごっこ』をしている人間は少なくありません。思考を巡らせる、復習するなどの行為は一見頭を使っているように思えますが、実はそう思ってしまった事は、あなたが脳死をしてる決定的な証拠とも言えるでしょう。「思考を巡らせる」「復習をする」は、所詮あなたが『頭を使うごっこ』をした後に、そのごっこ遊びにそんな名前を後付けしているに過ぎないのです。あなたは思考を巡らせていなければ、復習もしていません。あるのは“頭を使った”、という虚しい自己満足のみです。それでは、本当の意味で頭を使うとはどういう事でしょうか。先に述べた例に沿うなら、その日の天気や食材の価格の変動、最近の夕飯の傾向を論理的に分析し、何が一番夕飯として用意されやすいかを考えます。例えば、暑い日で最近は肉や魚が続いていたなら“冷やし中華”かもしれません。親が仕事で疲れている、あるいは冷夏の影響で野菜の値段が高騰しているという可能性を加えれば“そうめん”という選択肢も出てくるはずです。先の“今日のご飯は何だろう”とは比べものにならない程頭を使っています。これこそまさに思考を巡らせるという事です。それでは、普段からこのように意識的に頭を使うにはどうすれば良いのでしょうか。そのヒントは、食生活にあります。魚には、オメガ3脂肪酸という物質が含まれており、これを食べる事により頭が良くなります。以下、おさかな天国
サカナ サカナ サカナ
サカナを食べると
アタマ アタマ
アタマ アタマが良くなる
サカナ サカナ
サカナ サカナを食べると
カラダ カラダ
カラダ カラダにいいのさ
さあさ みんなでサカナを食べよう
サカナはぼくらを待っている
ウォシュレットのレビュー
まえがき
今回は、ウォシュレットのレビューをしてみたいと思います。
使用したのは、TOTOの「'07 ネオレストAH1 TCF9783」です
はじめに
みなさんは普段
《おしり》
《やわらか》
《ビデ》
《止》
のどれを使っていますか?
私のおすすめは
《やわらか》です。
理由は、《おしり》より柔らかいからです。
《おしり》も悪くはありませんが、私は《やわらか》をおすすめします。
《ビデ》は使ったことがありません。
理由は、使う機会がないからです。
本題
さて、今回はウォシュレットのレビューという事で、実際に全部使って感想を書いていきたいと思います。
まずは、《止》です。
ボタンを押してみると、リモコン中央の画面に「止」の文字が表示されました。しかし、それ以外には何も起こりませんでした。まるで何かが起こる予兆のようにも感じられます。
次に、《おしり》です。
ボタンを押すと、おしりに水がかかりました。そのままではパンツを履けないので、ここは冷静に紙で拭きます。
次は、《ビデ》です。
ボタンを押すと、股間に水が当たりました。そこは汚れてねえよ、と怒りが込み上げますが、ここは冷静に股間を拭きます。洋式トイレなので、もしかしたら西洋の風習が反映されているのかもしれません。汚れているかどうかは問題ではない、水で洗うことに意味がありそうです。西洋文化も侮れません。
最後に、《やわらか》です。
ボタンを押すと、ノズルから放たれた聖水が私を秘密の花園へと導きます。俗物や雑念は存在しません、あるのは全ての自然と調和するおしりの穴です。聖水はまた私の心を柔らかく包み込み、秘密の花園で天使とワルツを踊ります。幸せというのは時として、長くは続きません。お水が勿体ないので《止》を押しますと、幸福と調和をもたらすノズルは姿を消し、残るのはびしょ濡れのおしりのみです。拭きます。
さいごに
あなたは普段ウォシュレットを使う時、何を考えていますか?最近はトイレでスマホをいじる人間が増えていると耳にしますが、人間に幸福をもたらす為の科学によって人間の幸福が蝕まれている最もな皮肉であると、憤りを感じざるを得ません。
あなたは本当に不幸ですか?幸せを追求するうちに、本当は目の前にある幸せをかえって見失ってはいませんか?繰り返すようですが、おすすめは《やわらか》です。これを機に、もう一度ウォシュレットと向き合う時間を作ってみてください。
不合格体験記
目次
1.不合格体験記を書くにあたって
2.不合格への歩み
3.何か言いたそうな様子でこちらを見つめている
4.PDCAのC
5.最後に
1.不合格体験記を書くにあたって
世間一般に合格体験記は往々にして見受けられる一方で不合格体験記はなかなか見受けられない。世間的には合格体験記に限らず成功者の格言、伝記は価値のあるものだと評価される傾向にあるようだが、失敗した者の意見はどうやら人気がない。失敗談から得られるものは少ないと思われているのだろうか。しかし大抵ダメな人間は、成功者に憧れ真似をしようとするも失敗し、次からは同じ過ちを犯すまいと学習し賢くなったつもりになる、いわば「愚」そのものである。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(ビスマルク)
痛い目を見ないとわからないのは愚者であり、歴史(他人の失敗)を学ぶことで自分の失敗を回避するのが賢者である。このビスマルクの言葉を私なりに解釈するなら、「賢者は成功者を参考に道路を敷き、失敗者を参考にハンドルをきる」といったところだろうか。今回の場合で言えば、合格体験記を参考に今後の勉強の方針を固め、実行に移した後は不合格体験記を参考に過ちを回避すれば良い、これが合格への近道であろう。
この時点で不合格体験記が合格体験記と同等の存在意義を有する事は自明である。
2.不合格への歩み
自分で言うのもなんだが、昔はそれなりに勉強ができた。中学の頃は9割は安定して取っていたし、早慶対策をしていた事もあって高校入学時の実力テストでは学年320人中英語4位、数学10位と最高のスタートをキメていた。ここで調子に乗った訳では無いが、順当に行けば東北は余裕だと思った。予め言っておくが、自分ができると思う事は悪いことでは無いと思っていて、それが自信に繋がればモチベ維持にもなるし、自分はどうせ出来ないと思った時点で終わりだと思う。自分が出来るから努力しなくてもいいと思うのは論外、ソースは私。そんなこんなで人一倍努力を怠った私は、あろうことか全く成績が下がらなかった。は?と思ったかもしれないが、7月,11月の進研模試では数学校内2位をとり全国偏差値は70後半〜80をキープしていた。定期考査はクラスの前列6人と仲が良く毎回競っていたが、その中でも特に努力家で東大志望のK君に勉強せずに毎回勝っていたのは私を調子に乗らせるには十分すぎた。そんな私だが、いつまでも勉強せずに成績が落ちなかった訳では無い。私は2年次以降の理系選抜クラスに入るために評定には気を配っており、生活態度もそれなりに気を使っていた。境は理系選抜クラスに受かった時である。おそらくあの瞬間から評定を全く気にしなくなった。2年になる前の春休みはモンスターハンターXXを買い、飯風呂睡眠以外は友人3人と永遠にインターネット上でモンスターを討伐していた。課題を初めて開いたのは春休み最終日だった。提出に間に合ったのは数学だけで、それ以外は後で提出しますと言って結局提出しなかった。その後も課題は数学しか真面目にこなさなくなり、成績はぐんぐん下がっていった。特に2年から始まった物理、化学、地理は壊滅的である。授業中も前の席でありながら寝てばかりで救いようがない。
ここで塾に行っていればまだ救いようがあったが、私が選んだのは映像授業の某予備校であり、時間が決まっていなければ教師と話せる訳でもない。ここもかなり選択ミスで、よほど勉強熱心でない限り普通の学習塾をオススメする。重要なのは自分で塾に行く意志ではなく、塾に行かなくてはいけないという義務感である。やる気が無ければ伸びないと言うが、塾に行かないのは論外。そして塾に行きさえすれば大抵周りの刺激を受けてやらなければと思えるので結果オーライ。勉強熱心な人は映像授業でも独学でもお好きなように。
話を戻すが、2年次に勉強しなくなったもう一つの原因は学校の某部室である。あろうことかその部室は新興国に劣らない発展を遂げており、その1年間は学校を出るのが21時は当たり前、休日もソコに集まり活動を続け、勉強を怠った。2年次が終わる頃には学年順位は半分を下回っていた。
ここから得られる教訓は、誘惑をいかに断ち切れるかである。人間というのは基本的に自分に甘い。そのくせして本気を出せば欲を抑えられると本気で思い込んでいる。無理である。本気で(本気でなくとも)勉強したいと思っているなら、過度な誘惑は断ち切り、強制的に自分が勉強せざるを得ない「環境」を創り出す以外に手はない。先も述べた通り、重要なのは義務感である。周りの環境によって勉強させられるのである。それでも人間は不思議なもので、5分机に向かえば案外捗ったりするものである。もちろんそんな義務感無しでも机に向かえるならどんどん向かってたくさん勉強して欲しいし、合格体験記を参考に効率のいい勉強法を見出していって欲しい。余談だが、こう見えて高校受験期は1日10時間は軽く勉強していた。平日は学校が終わるとすぐ塾に行って自習し、休日は塾で10時から22時まで勉強した。逆に塾以外では全く勉強しなかった、というか性格上出来なかった。それでも勉強時間は自分の自信となり武器となったし、結果的に高校入学時の好スタートにも繋がった。重要なのは「環境」である。
時は3年次、私は文化祭の実行委員長を務めており、勉強よりも文化祭に力を入れた。勉強しなかった原因を文化祭にするつもりは無いが、文化祭一週間前の1学期中間考査は壊滅的だった。特にこの時、化学は無機化学が範囲であり、この時何かしら無機化学の知識をつけようと努力しなかったのは受験最大の失敗である。
夏休み、私はようやく塾に籠り始め、化学を中心に今までの復習を始めた。1日10時間を目安に勉強した。だが途中で気づいた。穴が多すぎる。これまでの定期考査で一回知識を入れておけば、最悪忘れても3年の夏休みで知識の再確認→定着に持っていけるが、知識がない場合はまさに絶望そのものである。化学中心の話にはなってしまうが、問題集の問題を一通り解き、無機化学を一通り暗記した私は完全勝利だと思っていた。向かえた9月、化学のテストは全く解けなかった。初めて得た知識が復習無しで定着するはずがない。そんな単純な事がわからなかった訳ではなかったが、夏休み40日間といえ時間が無かったというのが1つ、加えて勉強してから一週間ほど知識を記憶しているが故に復習を怠ったのが致命的であった。結局、夏休み中1日5時間は割いた化学の勉強は水の泡となり、センター試験本番では29点とかいうおもしろスコアを叩き出してしまった。この話は後でする。結局伝えたいのは、復習をしろというのはもちろんだが、自分を過信しすぎるなという事である。人間の脳は都合の良いようにしか事物を解釈しないので、自分は理解しきっていないのではないか?本当に覚えてるか?試験本番でその式が導けるのか?と自分を常に疑って欲しい。本当にわかっていたなら何回も解くのは効率が悪いかもしれないが、わかったつもりになっている方がもっと恐ろしい。範囲外のことは試験に出ない以上、範囲内の何を出されても文句は言えないので苦手があることは致命的である。時間をかけて早く潰せ。
3年2学期、定期考査の勉強をそこそこした甲斐もあり、現役生が苦手と言われる教科書の最後の方の分野が人並みには出来るようになったが、受験勉強自体はよく進んだとは言えない。というのも、本来なら10月には赤本に触れるべきであるが、既習範囲が固まっていなかった私は過去問を解くのは既習範囲が固まってからと後回しにしていた。これがまた失敗で、受験校の傾向を知った上で今後の勉強の方針を立てるためににも過去問には触れた方が良い。また赤本を買って、新しい年度の問題は後にとっておく勢が見受けられがちだが、それは傾向を掴むのを後回しにしている故に何の意味もないので、出来るだけ早めに手をつけるべきである。
2学期終盤、期末考査も終わり二次演習もストップしセンター対策にシフトする時期だが、課題として出ていたセンター化学とセンター物理の問題集を全くやっていなかった。マジで救いようねえなこいつ。今思えば、2年で評定を気にしなくなり、課題を提出しなくなってから勉強しない習慣が続いたせいで、平日に4-5時間勉強すれば良い方だろうと思い込んでいた節があった。そのクソぬるいノルマを達成し達成感に浸った私はゲーセンを経由してお家に帰った。今のところゲーセンに行ったことは失敗だったとは思ってないが、勉強時間が少なかったのは大問題である。そもそもこの時期詰め込もうとしているのが失敗で、本当はもっと早くから勉強していて試験前は知識の確認程度が理想の受験生なのかもしれない。
冬休み明け、今までサボっていたセンター化学の問題集を一周し、駿台のパックVでも7割を取れるところまで持っていく事に成功し、あとは国語と英語が何とかなればというところまで来た。しかしあろうことか英語も国語も授業のセンター演習で毎回爆睡をかまし、結局センター本番直前に自分の勉強時間を使って演習する羽目になった。古文単語は本番3日前から始めて間に合ったからマドンナ古文単語に圧倒的感謝。こんな感じであっという間に時間が過ぎ、気づいた時にはセンター試験本番だった。本当にあっという間だった。
センター本番、特に書くことはないが、休み時間は大抵談笑していた。ただ本当に疲れるから二度と受けたくない。
翌日、心の底から学校に行きたくなかった。というのも、センター2日目夜に恐る恐る自己採点をして全てを悟り、早くお寺に出家したかったからである。親にも点数を教えなかった、それだけ悲惨だった。他の人の言う「爆死」とは訳が違うし、二次試験を受けるのを辞めようとすら思った。そんな私だが、学校に行くと(程度は違えど)同じような境遇にある仲間がいて、私に北大を勧めてきた仲間がいた。受験は団体戦の真意を理解した気がした。ここから北大逆転合格を狙う日々が始まる。
はずだった。数学は数Ⅲの記憶を取り戻すために10日間完成シリーズの複素数平面と微積を購入した。しかし他の教科との兼ね合いもあり、結局終わったのはそれぞれ7日分ほどであり、特編授業の内職で何とか進めた程度だった。放課後はどこかに集まり、おしゃべりを交えつつ過去問を解くなどした。結局この時期になっても勉強時間が増えることは無かったのだ。私は以前まで試験が近づいたら本気で勉強し始めるだろうと思っていたが、ここにきて甘さを痛感した。人間そう簡単には変われない。勉強する習慣をつけろと中学の頃の塾の恩師に言われたが、その意味がようやく理解できた瞬間である。
二次試験一週間前、この世の全てを悟った私は英語と物理と化学を捨て、数学のみで戦うことを決意した。その決意が消えないうちに北大の理系数学15カ年を購入し、1日10問ペースで進めた。科目を絞ると精神が安定することに気がついたが、受験科目が減るわけではないので絶望である。気づけば新千歳空港に着いていた。
「What’s the purpose of your visit?」「 sightseeing.」
札幌行きの道中で一面が雪景色だったり家に煙突がついてたりなど印象的なことが多いが、札幌に着いて初めて北海道の怖さを知る。普段通りの格好で札幌に着いた愚かな私は寒さに恐怖し、ホテルにチェックインを済ませるとすぐに評判の良いみそらーめんのお店に行った。美味しかった。帰りはすすきのに寄り、ラウンドワンで22時まで音ゲをした。全一の人がいたのは驚いた。楽しそうだなこいつ。
結局2日目も北大の下見をしたりジンギスカンを食べたりして勉強は物理の公式を1時間ほど復習して早寝で試験に備えた。こうして第一次受験戦争はボロ負けで幕を閉じたのである。(あとがき)序盤は教訓をメインに出来るだけためになるよう書いていたが、3年2学期辺りからこんなゴミみたいに勉強しない奴いないだろと思い、以降ただの思い出振り返りになった。あなたがこれを許せる広い心の持ち主であれば、きっと学業でも成功するだろう。
3.何か言いたそうな様子でこちらを見つめている
冬休み明けにセンター化学の問題集を一周したという記述がありながら、なぜかセンター化学の点数がバグっている、そう思えたあなたは相当感が鋭い。数学の捨て問とかしっかり見抜けそう。そう、私はあろうことか夏休みの後悔を入試に活かせなかったのである。やったすぐ後は問題が解けるが、復習しないと数週間で記憶が抜ける。あれだけ後悔しておきながら同じ過ちを繰り返すとは何事か。愚者は経験から学ぶのではなかったのか。
4.PDCAのC
まとめよう。
1.勉強せざるを得ない環境を作れ
2.常に自分を疑え
3.受験の宿は早めに予約しろまじで
5.最後に
将来の自分は他人なのでは?と考えたことはあるだろうか。将来の自分のためにも頑張れと言われてもイマイチやる気が起きないのはこのせいである。もちろんやる気が起きれば良いが、起きないなら現状として今は勉強をしなければいけないという義務感に追われ続ければそれで良い。いくら自分が苦労しようが悩もうが、将来の自分が他人であるように過去の自分も他人であるのだから、きっと将来の自分はそれらを思い出したりはしない。つまり今苦労することで、将来の自分は苦労せずに幸せになれるのである。何を言っているかわからないが、今から頑張るしかないということだ。
最後に、5500字の駄文に付き合ってくれてありがとう。私の不合格が皆さんの合格につながる事を願い不合格体験記とします。