さらしぼ日記

さらっと死亡

コップ論

なぜコップに水を注ぐと溢れてしまうのか。残念なことに、我々の体は正確な作業には向いていないため、溢れる前に止めるというような高度な技術を持ち合わせることは無い。しかし、幸いにも高度な「知能」を持ちわせた我々ならば、知恵と発想でどうにでも出来るのである。その例が「もっきり」である。

溢してしまうなら、いっそ溢す事を前提とすればよい、という何とも斬新な発想で昔の人はこれを乗り越えた。いやあ賢い。しかし、当時升というのは非常に高価で、そこらの庶民が手に入れられる品ではなかった。やはり知能がどれだけあろうと、コップに注ぐと溢してしまうのだ。そもそも、なぜ人は飲み物をやたらコップに入れたがるのか、疑問に思っている人も多いだろう。その一つは体裁である。どう考えても飲み物を直接口に運ぶのが賢いのに、それでもなおコップに注ごうとする人間のそれは、根底には「コップに注ぐことが美徳であり、より人間らしい」という発想があるからに他ならない。当然ながら、他の動物は飲み物をコップには注がないから、それらの動物といわば“差別化”を図っているのである。しかし、そもそも人間と他の動物に差を付けようとするその発想は、実は“人間も他の動物も変わらない”という事実に気付きつつも、必死に目を逸らし、自分たちがさも頂点であるかのように振る舞う人間の傲慢そのものではないだろうか。私は、動物園で動物が突然交尾を始めた動画がTwitterで回って来る度に、中に人間でも入っているのか?とつい思ってしまう。そこであなたは、お得意の「知能」でマウントを取ろうとするのである。しかしながら、他の動物が人間の知能に勝る、人間の理解を超えた何かを持っている可能性について、考えた事はあるだろうか。もしそれを考えもせずに人間が動物より優っていると吠えるなら、きっとその哀れな鳴き声は動物たちを爆笑の波に引き摺り込んでしまうだろう。結局のところ、人間にも動物にもコップは早すぎたのである。大人しく小川に口を当てようではないか。自然の生み出す綺麗な水と一緒に、大量の微生物を飲み込んで高らかに謳おうではないか、「我々が一番である」と。それを聞いた微生物は笑い転げ、人間のお腹を破壊していくかもしれない。それでも、トイレに駆け込む人間もまた愚かで趣きがあるのだ。
そうして私は、店員のお姉さんが通してくれたストローで、優雅にコーヒーを飲むのであった。